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中野Drの専門家コラム

感染と予防Webにご参画いただく中野Drの日常を感染予防の視点よりコラムにてお届けします。

中野先生のプロフィール

中野先生
氏 名:
中野 貴司(なかの たかし)
所属施設:
独立行政法人国立病院機構 三重病院
現 職:
臨床研究部 国際保健医療研究室長(小児科医)

日進月歩を遂げる近代医学において、最も画期的であった偉業は?

2007年を迎え、イギリスの医学総合雑誌「British Journal of Medicine(BMJ)」がインターネット投票を読者に呼びかけました。BMJは世界でも有数の医学雑誌の一つで、11万部の発行部数を誇っています。医学論文や研究のレビュー、最新ニュース記事等を掲載し、世界中で医師や研究者に読まれています。今回BMJが呼びかけた投票とは、「BMJが創刊した1840年から現在に至るまでの過去166年間で、最も偉大であった医学史上の業績は?」を問うものでした。

投票対象として、15項目の候補が挙げられました。この中で、読者が最も画期的な進歩であったと考えるものを、インターネットで投票してもらうというやり方です。10日間の投票には、イギリスをはじめアメリカ、カナダ、イタリア、スペインなどから11,362名の医師、看護師、研究者、学生たちが参加しました。

候補15項目は、それぞれ、私たちの健康や医療環境に画期的な変化をもたらしたものでした。例えば病気を診断する方法として「X線などを用いた画像検査」があります。レントゲン検査ができるまでは、身体の中を透かして観察するなど思いも及ばなかったことでした。そしてそれはさらに、CTやMRIという高度画像診断技術へと進化してゆきました。治療分野では「抗生物質」、「麻酔」、「経口補水療法」、「向精神薬」が候補に挙がっています。どの候補者も、病気で苦しむ多くの人たちを救ってきた英雄たちです。これらの薬剤や処置により恩恵を受けた人の数は計り知れません。予防医学では「ワクチン」、「公衆衛生分野の改革」が名を連ねています。病気に罹ってしまう前に防ぐということは、最も理にかなった健康対策です。病気にならなければ合併症や後遺症を残すことはありません。しかも、予防は治療に比べて、より少ない費用で多くの人々の健康を守ることができると言われます。「経口避妊薬(ピル)」、「微生物病原説の理論」、「コンピューター技術」、「DNA構造の発見」、「疫学研究による喫煙リスクの発見」、「実証的医療という医学研究へのアプローチ法」、「免疫学の進歩」、「組織培養技術」で計15項目になります。
さあ、あなたならどの候補者に一票を投じますか?

開票の結果、首位に輝いたのは「公衆衛生分野の改革」でした(図1)。医学専門分野の中では、わが国では一般の方々にはあまり馴染のない項目かもしれませんが、安全な水の確保や汚水処理が人類に最も恩恵をもたらしたというのがトップになった理由と考えます。

公衆衛生の観念は世界に先駆けて市民革命と産業革命を経験したイギリスで始まりました。産業革命の結果、都市に多くの住民が流れ込み、人々は不衛生な住環境の下で、低賃金、長時間労働の生活を強いられていました。また、結核、ジフテリア、麻疹、天然痘、腸チフス、発疹チフス、赤痢などの感染症が蔓延していました。そして産業革命による物や人の頻繁な移動に伴い、コレラがヨーロッパに伝播し大流行を起こしました。多くの感染者および死者を出し、「ペストの再来」と恐れられました。イギリスの医師、ジョン・スノーは、コレラ患者が多数発生したロンドンのある地区で患者発生状況の調査を行い、汚水が侵入した井戸の使用がコレラ流行の原因であると結論しました。これを受けて、問題の井戸を閉鎖するという行政措置がとられ、流行は終息しました。ロベルト・コッホがコレラ菌を発見する数十年も前のことです。これが近代の公衆衛生の始まりと言われています。

上水道と下水道を各住居に設置する必要性を訴えたエドウィン・チャドウィックも、公衆衛生への偉大なる貢献者です。彼は医師でも衛生技師でもなく、弁護士でした。感染症により一家の稼ぎ手が亡くなることが貧困の根源と彼は思いました。そして、感染症は都市の悪質な排水による環境汚染のせいと考え、大都市に上下水道を整備することを主張し、そのための法律と管理体制の確立を提案しました。彼の提案がイギリスで実現し、またヨーロッパ各国に広がるまでには数十年かかりましたが、確実に死亡率の低下に貢献しました。

全世界では、11億人の人々が安全な水へアクセスすることができません。特に、サハラ砂漠以南のアフリカでは安全な水の普及率は56%と、他のどの地域よりも低い割合となっています(図2)。また地球人口の3分の1以上にあたる26億人が、トイレなど衛生施設を利用できない状況にあります。その殆どがアジアやアフリカに集中しており、農村部と都市部の地域格差は広がる一方です。

図2
Source: WHO/UNICEF: Joint Monitoring
Programme for Water Supply & Sanitation

開発途上国では毎年200万人が下痢症で死亡、その殆どは5歳未満の子どもたちです。これら死亡の88%は、安全な水の供給や衛生施設の改善で防ぐことができるといわれます。そしてそれは、国連ミレニアム開発目標(MDGs)ターゲットの一つでもあり、国際社会の最優先事項です。チャドウィックの「貧困と不衛生と疾病の悪循環を断つべき」という公衆衛生の概念は、経済や社会情勢が発展した今でも、私たちの健康を向上させるために重大な役割を担っています。